私は最近、
神足ご唱和を、
今までは口にしたことのない表現、
〝 魔法の言葉! 〟
この一言で、
言い切ってしまうようになりました。
それは次のような気づきからです。
心は—
境涯、
心境、
思い、
有様と、
様々な状態が、
様々な場面で、次々に現れます。
こういう気持ちとか、
こういう精神状態とか、
ふわっとした表現は出来るのです。
しかしこれでは、
言葉になっていないので、
自分の事がよくわからないし、
人にも理解してもらえないのです。
何をどうすれば、どこをどうすれば、
変わる事が出来るか、抜け出られるか、向上出来るか、
不透明でわからないのです。
ところが、
神足ご唱和をもって来て、添えると—
あら不思議!
〝 答え 〟が出てくる!
合わせ鏡のようにして〝 対 ( つい ) 〟にするのです。
すると、
言葉にならなかったのが、言葉になる。
言葉として表されないものが、言葉に出る。
言葉になったとたん、
〝 答え 〟が現れる!
この不思議を感嘆して、
魔法の言葉!
こう言うようになったのです。
私自身、
何度も教えられているのです。
心の世界は、表現が抽象的なのです。
用いられる言葉はいつも大体同じです。
そして、抽象的です。
だから、
どこも、似たり寄ったりの印象なのです。
具体的な、〝 視える化的 〟な解き明かし、
これがない。
どこも、フワッとしている。
この漠然さが、
心学びの特徴、
心学びの雰囲気にもなっているのです。
フワッとした雰囲気に浸れて癒される、
これはありましょう。
しかし、どうでしょうか?
求める人、
必要な人、
悩む心を晴らしたい人、
自分を変えたい人、
限界を超えたい人、
更に高まりたい人にとっては、
行き詰まりに、
等しいのではないでしょうか!
〝 心の在り様が言葉化 〟されないと、
心の状態を説けない。
説けないと、
どこが問題か、その箇所も語れない。
問題は、浮き彫りに出来ない。
俎上にも載せられない。
どこをどうするか、
ないまま。
だから、いつまでも漠然としている。
とどのつまり、
心の学びについては—
受ける側の自制にかかっている、
のではないでしょうか!
問題提起する人はいませんでした。
どうしようもない、として。
しかし!!
大きな転換期が来たのです!
それが、
これからお話する、
4日土曜日の0時を回った未明の、
神秘体験です。
だんだんと、
気持ちがこう集中したのです—
私自身が、
神足ご唱和に没入すべきではないか!
それは、決意へと変わった—
神足ご唱和に、
己を賭けるのだ!
己を賭ける決意—
意を決したその瞬間、
宇宙のインスピレーションが降臨したのです!
〝 分からないことは無いのだ 〟
分からないことが無い
直観が降った—
神足ご唱和の新しい示しも湧き出た。
未明の出来事だった。
この功徳を与えるが如くに、
朝方の3件の祈りは、
何もが、
高い霊験が現れた!
証が示されたのだ。
これより、
神足ご唱和について、
新しいお知らせを致します。
目からうろこのお伝え、
わかりよく、
縦横無尽の解き明かし!
を始めるものです。
あなたは、
大いに力付けられます!
朗報として、
お届けするものです。
左藤滋光 合掌
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