想像しますね、
弘法大師でありますが、
いくら素晴らしいといっても、
修行に関しては、
近づきがたく、難解で、
自分たちも出来る修行があるかというと、
無理ではないか、と。
だから後の世、
誰もが救いにあずかれるように、
題目とか念仏が出現したのではないかー
こう想像してしまいます。
ところが、
誰もの救いは、
立義分で出されていた。
ではなぜ、
救済として広まなかったのか?
なぜ、
人を救い得るうねりに至らなかったのか?
この答えが神足です。
1月に神足を打ち出して、
2月に立義分に出会う。
この流れだったからわかった。
現代、
いくら心磨きに投入してきたからと言って、
右肩上がりにはならない。
乱暴な言い方をすれば、
むしろふつうの人で止まったままー
いったいなぜなのか?
その答えでもあります。
世に出さねばと、
気持ちを固めています。
今日も感謝から!
和顔愛語のあなたが、
一番いい。
左藤滋光 合掌
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